私たちの祖先は、秀緑岩木山を仰ぎ、大いなる日本海にいだかれて、この壮大な大地に屏風山を造成し、苦難の新田開拓の偉業を成し遂げた歴史を持ちます。
そして、母なる岩木川の恵みを受け、実り豊かな津軽平野を生み出しました。
ここはかつて、世界に誇る縄文文化が華(はな)ひらいた古(いにしえ)のふるさとでもありました。
私たちは、その伝統と遺産を未来に受け継ぎ、自然と人とが共に生きることのできる「新田の歴史が彩る日本のふるさと」を築<ために、5つの彩りあるまちづくりをめざし、ここに市民憲章を定めます。
1 私たちは、恵まれた自然環境を守り、先人たちが築きあげた歴史
と伝統を尊ぶまちをつくります。
1 私たちは、生涯を通して学ぶ心を育み、教育と文化、かつ芸術を
大切にするまちをつくります。
1 私たちは、スポーツに親しみ、心身ともに健康で、生きがいと笑
顔のたえないまちをつくります。
1 私たちは思いやりと助け合う心で互いに敬愛し、きまりを守って
安全で安心な信頼できるまちをつくります。
1 私たちは働くことに誇りと喜びを持ち、個性と能力が発揮できる
社会をめざして、活力ある元気なまちをつくります。
2008年03月16日
2008年02月11日
土淵堰
弘前藩4代藩主津軽信政は,新田開発に力を入れました。木造地方でも開発が進められ,田に使う用水が足りなくなっていました。小山内作右衛門という武士は,これからどんどん田が増えていくことを見通して,思い切った用水計画を立てていました。
これまでのように,岩木山から流れてくる小さな川の水にたよるだけではとても間に合うはずがない。年中水の豊かな岩木川の水を引くの一番いい。そのためには,船水(今の弘前市内)のあたりで岩木川をせき止めて水戸口をつけ,そこから堰を通して水を引いてくることにしたい。
この計画は藩に認められ実行されることになりました。作右衛門も用水ぜき係の役人として腕を振るうことになりました。
大工事だったので,費用は藩の役所が出しましたが,実際に土を掘って働くのは水を使う百姓たちでした。百姓たちは,水が足りないときの苦しみや辛さを誰よりも知っていたのでがんばり続けました。
こうして,1665(寛文5)年から木造地方の用水のために作られたのが土淵堰です。今も木造地方の田にはなくてはならない大事な用水路です。
2008年02月09日
いちょうが丘公園の大銀杏
岩木川に堤防を築くこと,土地が低いので特に水の流れをよくすること,用水路を作ること,砂あらしをふせぐことなど,これからの問題をいっしょに解決しようという考えがこの計画もとになっていました。
1681年「広須新田御掟条目」というきまりを作って,岩木川の西側の平野の開発を進めました。
信政は,この新田開発事業に特に力を入れていました。木造のいちょうが丘公園のあるところには開発の役所や殿様が見回りに来て泊まる宿(お仮屋)も作りました。
大銀杏や千代の松は,信政が記念に植えたと伝えられています。
